p11・12 6 下街道と内津宿<『さいお』春日井市立西尾小学校開校100周年記念ハンドブック2010>
江戸時代になると、春日井市に東海道と中山道を結ぶ街道が2つ通っていました。その1つが下街道であり、善光寺街道とも呼ばれていました。名古屋から信州、飛騨に通じる便利な道で、多くの旅人に利用されてきたのです。今の県道内津川線(旧国道19号)がこの下街道とほぼ一致します。しかしたとえば、市民球場のそばの湾曲して裏に入り込んでいる道(ガソリンスタンド~鵜飼酒店)が元々の下街道であるように、これまでに拡幅や直化が施されてきているために、注意深く見ないとわからないところがあります。
『春日井市史』に、「美濃との国境で、峠に近い内津も、街道に沿って家が三町程も建ち並び、副業として、旅人を泊めるものが多かった」「宿屋を専業として営んでいる者はいないのて、十日番と呼ばれる当番を置き、宿泊を希望する旅人がある時は、適当に民家に配分して泊まらせた」とあります。内津村は、内々神社の神領で門前町であったため、正式には宿場ではなかったのです。
『さかした』(昭和43年坂下町誌編集委員会)には、内津村の「売売惣高書上帳」(竟政の頃か、見性寺蔵)をもとにした一覧表がのっています。それによると、茶をはじめ、米、酒、味噌、たまり、麦、大豆、塩、炭、薬など、実に様々な商品が扱われていたことがわかります。特に<内津茶>は名産品として広く知られていました。内津村では、東濃や近い村から品々を買い入れ、それを今度、近くの村はもちろん、名古屋・小枚・信州・江戸などにまで売りさばいていたのです。
これらの商いについてに、内津村の人たちたけでなく、西尾村や明知村の人たちも多くかかわったようです。この地区は小規模な農家が多かったので、人々は農閑期を利用して副業を営んだのでしよう。
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宿場
中学生がよく使う『歴史基本用語集』(吉野教育図書)で、「宿場」をひいてみると、<街道すじに2 ~ 3里(約8~12km)ごとにおかれ、宿舎や輸送のための人足や馬がととのえられていた。>とあります。この説明にあてはまるのは、同じ春日井を通る街道でも上街道の方で、正に尾張藩主が参勤交代で江戸との間を往復するのに使いました。公家(皇族や貴族)や武家(大名や武土) が宿泊・休憩てきるように本陣、脇本陣という家がおかれたのです。これらに一般の人が利用することは許されまんでした。これに対して、下街道はいわゆる庶民の街道ということになります。そのため正式には宿場は設けられませんでした。
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茶屋の藪
下街道に、かつて坂下のあたりから細野、小木、多治見にぬける支道があったそうですが、『春日井の散歩道』 (春日井郷土史研究会)には、「間街道(あいかいどう)」として紹介されています。ちょうど廻間の岩船神社裏手から山を登ったということです。江戸時代には、各国境などに関所というものがおかれていたのは有名ですが、内津峠にも、しばしば役人が来ていて、行き来する旅人を調べたそうです。そうした関門を通っては具合の悪い人たちが、谷や山を抜けている定かでない道を、人自をさけて通ったそうです。廻間がその通路にあたっていて、名ばかりの茶屋が竹藪のかたわらにあったということが『さかした』に紹介されています。
国境ならではのエピソードですね。
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